2012年7月10日火曜日
天才!成功する人々の法則
読了しました。 『天才!成功する人々の法則』Maicolm Gladwell=著
この本を手にしたのは偶然ですが、最近もやもやしてたことに関してかなりストライクな内容でちょっと鳥肌ものでした。
整理を兼ねて、以下に感じたことを書いてみます。
そもそもは会社の業績を上げる為にマーケティング本を漁っていて「急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則」という著作が面白かったので、同じ著者の他のも読んでみようということで手に取った本です。だからこのタイミングで読んだことは本当に偶然で、そもそも機会の均等化とかを考えたい為に読んだのではないんです。天才の逸話は好きなので、読んで参考にできれば思っていたのです。しかし、いい具合に裏切られました。
本書は「天才はこうして生まれる。こう育てれば天才に育って人生の勝者になる」という自己啓発本ではありません。
むしろ「天才は才能や個人の努力だけでできるのではなく、好機を活かせたものだけが結果として成功できる。だからすべての人にチャンスを与えよ」という啓蒙書です。
自分は恵まれた人生を送れていると思います。いや、自慢とかしたいワケではなくて、仕事で世の中に何をなしたいのか考える中で、自然と自分の立ち位置を考えざるを得ない状況になっていた訳です、最近。それで自分を含めた回りの環境が実に恵まれているなと感じていたところなのです。そこから一連の考察が始まっています。
まず今、やりたい仕事を自由にやりたいと自分の会社を作ったはいいが、売上はさっぱりなのにそれでも生きていけている幸運。この状況を作る為に今迄それなりに努力してきた自負はありますが、それでも以前在籍した会社の名前や経験が次の会社で役立ったり、投資家や協力会社の存在があったから規模の大きなビジネスもできたのだったり、同僚や部下がいたからこそ仕事が回せたり、そうして今ごはんが食べていられる多少の蓄えもできた訳です。
で、自分が入りたい会社に就職できたのはバブル期だった幸運もありますが何より大学まで行かせてもらえたからで、そこに入学できたのは予備校に行けたから(一浪してやっと潜り込めた)だし、そもそも勉強がそんなに好きではなかった自分が大学にまで行ったのは姉兄が大学まで行ってたから自分も自然と行くもんだと思っていたからでしょう。そんなもんです。どれか一つ欠けていても今の自分は違うものになっていたでしょう(それが良いか悪いかは分かりませんけれど)。
なお僕の両親は大学は行っていません。父は戦後間もなく高校に入学しましたが程無く母親(僕の祖母です)が亡くなったので、中退して父親(僕の祖父)の仕事を手伝い下の兄弟の面倒を見ました。母は中卒です。
だからこそ子供達には自分の受けられなかった高等教育を授けたかったのかもしれませんが、とにかく高い学費を負担してまで大学に行かせるという機会を与えてくれました。同じ土地で暮らしているのに、親の世代では大学に行く余裕がなかったのに、子供の世代では景気が良くなり(僕は所謂バブル世代です)大学に行かせることができた。これ、僕に取ってはものすごい幸運です。
他にも実家が埼玉なので通える学校の選択肢が一杯あったとか、義務教育中に折り合いが悪くて学校が嫌いになるような先生に当たったことがないとか、市立図書館が近くにあって子供の頃から本を沢山読める環境にあったとか、いろいろな偶然と好機に恵まれて生きてきた訳です。
当時はそんなこと少しも考えなかったですけど。
ふと気が付くと、Facebookの"友達"にベンチャーの経営者や有力企業の幹部が何人もいて、他にもほとんどの人が有名大学出身者や留学経験者、博士や修士・MBAだったりします。
これ、大学の同級生が繋がっている訳ではなく、仕事関係の繋がりや研修会・勉強会で知り合った方や、他の場でも実際にお会いして友達になった方がほとんどです。もちろん学歴を見て名刺交換したりする訳もなく、個別に知り合った結果が偶然こうなっているということです。これって普通のことでしょうか?
いや、別におかしくはないし悪いことでももちろんないんですけど、おそらくこれが世の中の"普通"ではない気がします。
日本の大学進学率は全入と言われる今でさえ約60%(『教育指標の国際比較』文部科学省)です。2000年当時で約50%。僕が大学に入学した1985年では約30%程度です。
気が付かないうちに高学歴な方達を選別し進んで交流してきたかというとそういう自覚はありませんが、もしかしたら無意識のうちにそうしていたのかもしれません。もしくは自分の経歴であるレコード業界やITベンチャー、起業家の周辺では自然と上記の様なクラスタを形成しているのかもしれません。それでも普通に暮らして普通(むしろ控えめぎみ)に友人・知人と接してきたつもりが、何時の間にか社会の実情とは離れかけているところに来ていたのかもしれないと思うと複雑な気持ちになります。
起業してまで何をやりたいのか。何をすべきか。そもそも仕事とは何なのか。マネージャーが大好きなドラッカーも企業の目的は社会貢献であると言います。僕らの多くがメンターと崇める北米の投資家達もどんな社会的問題を解決できるのかでベンチャーの価値をはかっています。
そのスケールで社会を見ようとした時、貢献したいと思う社会が、実は自分の回りに感じている社会とは違うところにある(かもしれない)と気が付いた時は軽いショックを受けました。
「どうやって世の中に貢献するか」と議論する相手のほとんどが学歴や社会的地位の高い人達だったのです。
もちろん友達のみなさんは素晴らしい知見を持っているし、いつも感心させられています。議論も自分にとってとても学びの多いものです。しかしその議論の前提である「世の中」の解釈が揺らいでしまったのです。
高学歴な人々がベンチャーを起こしたり、イノベーティブな活動をするのはもちろんまったく悪いことではありません。むしろ望ましいことです。しかし高学歴でなければそういった活動はしない/できないのでしょうか?
自分のクラスタが偏っていたのは社会の「現場」に出向いていない自分の問題ではあります。しかし冷静に見て、社会にインパクトを与えているのはやはり学歴や社会的地位の高い方々が多いように思います(感覚値ですいません)。
もちろん大学に行くだけが勉強ではないし、大学に行かなくても立派な仕事をしている友人もたくさんいます。学校に行かなくても知識を増やし経験を積んで社会に貢献することは可能です。さらに教育は学校だけで行われる訳でもないし、学校に行ったからといって必ずしも教育がなされている訳でもないのも分かっています。
以下は私見ですが、問題は大学での教育内容にあるのではなく、いい大学に行ける(た)クラスタ(以下、便宜上「大学クラスタ」と呼ぶ)を生成する社会構造にあるのではないでしょうか?
社会にインパクトを与えるような経験値からくるナレッジは、社会構造上ほぼ大学クラスタだけに蓄積されるでしょう。別クラスタにも当然さまざまな経験やナレッジはありますが、影響力の大きい例えば研究所や海外からもたらされるものは大学クラスタのほうが圧倒的に有利です。
また学校教育の多寡だけが人の知見量を決定するのではありません。大学クラスタに属するような恵まれた環境が、クラスタ外にもネットワークを広げるような個々人の資質を育て、だからこそ大学クラスタでは学校だけでなく外部からの知見をも取り込むことが可能で、また知れば知る程さらにどん欲になることでどんどん知見を広げることができ、結果的に世の中に多く貢献するのだと思います。これはもちろん良いことです。
一方、教育熱心ではない(もしくはならざるを得ない)クラスタでは、大勢的に現状をやり過ごす(例えば終戦直後に家族が食べていく)ことが最重要課題であり、世界や将来の課題にまで手を回す余裕があまりないのではないでしょうか。彼らとって新たな知見とはある意味金持ちの道楽に過ぎないのです。
何か社会全体に関わる大きな問題が発生した場合には、各人が原因や対策を考えるざるを得ません。その際同じ社会全体のことを論じている筈なのに、実はクラスタによって持っている情報の量や質が違っているのではないでしょうか。
ところが我々には階級的なクラスタが存在している自覚が無いので、クラスタ間の情報断絶にも気が付いていない。また断絶しているとも思っていないから、人はみんな同じ基盤を持っていると思いがちで、だからすぐ問題が起ると一方から情弱とか自己責任とかいう話になってしまう。でも実は判断材料を手に入れられる前段階で自然に情報入手経路の振り分け(もしくは選別)が起っているから、双方の情報量には乖離があるのです。
ここで怖いのは、持っている方は持っていることが当たり前と思い込んでいて、持っていない方は持っていないことにも気が付いていないこと。一方は在って当然という前提だが、他方はそういうものが在ることすら知らないからその不在を問題にすることすらできない。話の前提がズレたままでは議論にならないのは自明ですが、今の世の中は実は結構ズレたままなのではないかと思います。
そうして話が噛み合ないままなのでやがてお互いに議論に疲れてしまい、情報量の乖離がひいてはクラスタ間の接点までを断絶してしまうでしょう。
で、これはなにも大学クラスタだけのことではなくて、経済はもちろん、世代だとか地域だとか人種だとか、もしかしたら趣味・嗜好のレベルまでクラスタ化の深化が進んでいて、各クラスタ間の情報量の乖離は加速度的に広がっていっている気がします。なぜなら、インターネットによって収拾できる情報量が爆発的に増えたことに加え、ソーシャルサービスの発達により自分の嗜好に近い情報が自然と集まってくる傾向にあるからです。一方で興味のない情報はわざわざ検索しないし、向こうから寄ってくることもありません。これが進めば自分達が気が付かないうちにいつの間にか世の中全体がずたずたになってしまうかもしれません。
もちろん現実的には各クラスタ間のリンクは何かしら存在するだろうけれども、強固なクラスタ内の繋がりと比較すれば外部へのリンクは細く弱い。自分たちが形成したクラスタ内は基本的に快適だから、細く危ういリンクを辿って別クラスタまで参照するような"意識の高い人"は少数派で、大部分はクラスタ内の情報で満足してしまう。それは上記のように持たない側からは"在ることすら知らない"から起きることだと思うのです。だって、自分が持っていない素敵なものがどこかに在ることを知れば、それを欲しくなるのが人間というものだと思うのです。
であるならば、ちょっとだけでも停滞する情報の流動をうまいこと後押しすることができれば、クラスタ間の乖離問題を解決できるかもしれない。
もちろんどのクラスタにも"意識の高い人"がいて、彼らはこれからも積極的にクラスタ間の壁を飛び越えるでしょうし、そういうアグレッシブな人こそがイノベーションを起こすのかもしれません。
しかし、アグレッシブな人が出てくるのを待っているだけで十分なのでしょうか?待っている時間は果たして残されているのでしょうか?
最近とある勉強会に参加していて、壁を飛び越え壊しまくっている"意識の高い人"に出会える機会が多いのですが、それはある意味こちらから学ぶ為に出掛けて行っているので集中して出会えているのでしょう。残念ながらあちらこちらにいる訳ではありません。
彼らは本当に刺激的で、毎回話を聴く度に本当に世の中が変わる気がしてきます。
でも、まだまだ足りない。
自然に考えて、大学クラスタだけに世の中を良くできる才能が偏在しているとは僕には思えません。どのクラスタにも等しく才能は存在すると信じています。実際何人かそういう人に会ってるし。
チャンスがなかったが故に見落とされている才能が実はまだまだ沢山ある。形にする手法を持たないが故に表に出せないアイデアがごろごろしている。評価できる人がいないが故に埋もれている天才がどこかに隠れている。だとすれば同情や感傷ではなく、純粋に社会にとってもったいないと思うのですよ。マジで。
もしちょっとしたきっかけで、その放っておいたら見過ごされてしまうだろう才能やアイデアを拾い上げることができたら、もっともっと世の中を良くできるのではないでしょうか。
ジョブスやゲイツは確かに天才だけれども、環境に恵まれなかったその他大勢の"ジョブス"や"ゲイツ"もどこかにいたのです。
その「その他大勢」が本来の才能を発揮できる、ほんのちょっとしたきっかけをどうにかして作れたら素晴らしいなあと思うのです。
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